骨董の部屋
骨董との出会い
私は古いものが好きである。それは、長い年月を費やしたものには圧倒的な存在感があり、新しいものには無い、味が生まれているからである。大袈裟に言えば、何事にも代えられない時間と言う全てを超越した不変さを身につけている彼らに、憧れを感じるのである。
私は気持ちに余裕がなくなった時、骨董を手元において、先人の惜しみない手間と努力が垣間見られる美しい細工のものや、昔、生活雑器として使われていたであろう手肌の温もりの感じられる器などを手に取り、遠い昔に思いを巡らせては、一人ほくそ笑んでしまうのだ。
私が初めて骨董に出会ったのは、十数年前。花展で梅を活ける壺を探しに、笠間に行ったときである。作家物の壺は最低でも二万、三万はしてしまうのを覚悟で探し始めたのだが、どうしてもイメージにあるものと出会えない。そこで、一時間ほど車を飛ばし、益子へ向かった。そこでも色々と店を廻ったのだが、どうしても「これは!」と言うものが見当たらない。夕方になり続々と店じまいを始め、半ばあきらめかけた頃、一軒の骨董店にふらっと立ち寄ってみた。薄汚れた店内をぐるっと見渡したそこに、高さ三十センチほどでイメージにぴったりの立派な壺があったのだ。恐る恐る店主に値段を聞いてみたところ、何と、五千円。即買いして帰り、早速その壺に辺りが明るくなるくらいの白梅を活けてみたのである。ざらざらした自然土の薄茶の壺に、白い長石の粒が花びらを散らしたように浮き出した壺は、白梅と一体となって見事に調和したのだ。
後に判明したのは、これは信楽焼の茶壺で、別に珍しいものではなく、骨董と呼べるものでもなく、値段相応であったのであるが、この時の感動が今も引きずっているのだ。
それからというもの、古いものを見るとどうしてもその時代の背景や人々の様子を妄想するくせがついてしまった。
以上が、私と骨董の出会いであるが、だからと言って骨董を買い漁っているわけではない。それは胡散臭いものもたくさんあるからだ。だからあまり高価なものは買わないというか、買えない。どうしても手元において眺めていたい、たまに使って愉しみたい・・と思うものだけを、妻の顔色とお財布の中身と相談して、そっと買うのである。
幕末の九谷焼の舟形皿
見込みに瓜図、まわりにロウバイ図
年代不明のビードロの花入れ
青と緑がほのかに入る
舶来ものと言う話だが、定かではない